精密なことはいいことか?

近年、新しい金型で生産されているプラモデルは本当に感心するしかないというほどリッチに精密な再現になっているのはご存知の通り。計基盤のメータやら内部の骨組みなどとにかく精密であることが素晴らしいプラモデルの証明となっているかのようだ。

実際に、その精密さを活かした作例を見せるプロのモデラーの作品などをみると、このキットさえ手に入れれば、自分にだってここまでの精密さをもってさらに上を目指すことだって夢じゃないかもしれないなんて思ったりもする。

でも、実際どうなのか。僕自身はプラモデルを楽しむための素材とみなしている部分があって、まず第1に自分が楽しめなきゃいけない。そういう僕が最近のプラモデルを作ると、どうなるか。下手な技術力と精密なプラモデルの間に抜き難く存在する深い谷があることをまざまざと見せつけられる感覚に囚われてしまい、できあがりを見ても惨めな気持ちになることも多い。要は、まったく釣り合っていないのだ。

こういうことを言うと「だから精密なキットに釣り合うよう自分の技術力を上げるために頑張ろうって思えるんですよ」なんてさわやかに言われてしまうのだけど、正直に言って、それが非常に煩わしい。こちとら仕事ですり減った神経をささやかな満足感で修復していこうくらいの気分でやってるのに。出来上がりを見て「お、なかなかカッコいいじゃん」なんて思いながらビールのひと缶でも飲んで眠れれば上等なんだよ。そういう技術力向上主義も否定はしないけど、オッさんの僕にとってプラモは「consolationとしてのプラモ」なのだ。だからほどほどに精密で、ほどほどに組み易ければもう言うことはない。組んで隙間が空いちゃってもいいの。気が向けばパテで埋めるし、気分じゃなければそのままにするし。色も塗るかもしれないし、塗らないかもしれない。

consolation(なぐさめ、敗者復活戦)としてのプラモ。最近、惨めな気分になることが多いオッさんは今晩もまた素朴な面白さのあるキットを夢見て眠るのである。